みなさま、こんばんは。
おすずです。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」の舞台となる東海地方。
家康の生まれ育った土地。大河ドラマの中でも登場してくることでしょう。
愛知県のお城
名古屋城
現在、名古屋城が建つ場所には、那古野城と呼ばれる城が室町時代から建っていました。
城の主は今川氏、織田氏と変わり、後に廃城となりますが、
徳川家康は天下統一のため、この地に再び城を築くことを決意します。
現在の名古屋城二之丸付近には、室町時代から前身となる那古野(なごや)城が建っていました。城主は鎌倉時代後期から名古屋台地北部の那古野の地を領有していた今川氏の一族で、1521~1524年(大永年間)に城を築いたとされています。
室町幕府が没落し戦乱の世となると、尾張守護代であった織田家の中でも、信長の父・織田信秀が台頭。1538年(天文7)頃、今川義元の弟・氏豊の居城だった那古野城を奪い取ります。その後、1546年(天文15)頃に古渡城(現在の名古屋市中区)を築いて居を移すと、信長に那古野城を譲りました。
1555年(弘治元)、当時、尾張の中心だった清須城に信長が移ると、那古野城は信長の叔父にあたる信光が城主となります。信光が没すると、重臣である林秀貞(ひでさだ)の居城となり、 1582年(天正10)には廃城となりました。
その後、信長は尾張統一を果たし、1560年(永禄3)、桶狭間の戦いに清須城から出陣。尾張に侵攻してきた今川義元に勝利します。そして小牧山城、岐阜城、近江の安土城に拠点を移しながら、天下統一に向けて勢力を伸ばしていきますが、1582年(天正10)、本能寺の変によって没し、豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられることになりました。
しかし、1598年(慶長3)、秀吉が伏見城に没すると、天下の情勢は豊臣方と徳川方に二分される事態に。そして1600年(慶長5)、天下分け目の関ヶ原の合戦により、徳川方が豊臣方に勝利しました。
信長が小牧城に移った後、清須城には信長の次男・信雄(のぶかつ)、秀吉の甥・秀次、福島正則が入り、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、四男・松平忠吉、九男・義直を入城させます。
当時まだ大坂には秀吉の子・秀頼が城を構えており、家康は秀頼や豊臣家の家臣を牽制するために、尾張の守りを重視していました。いずれ豊臣方と戦う日に備えて大坂と江戸を結ぶ東海道の防衛を固めておかなければならず、その中間点に位置する尾張に徳川の砦を置く必要があったのです。それは巨大な軍事要塞でもあった名古屋城築城へとつながっていきます。
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp
↑名古屋城公式ウェブサイト↑
岡崎城
岡崎城の起源は15世紀中頃まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城されたのがそのはじまりです。その後、享禄4年(1531)に松平清康公(家康公の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。
天文11年(1542)12月26日、徳川家康公は、ここ岡崎城内で誕生しました。家康公は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立しました。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めました。
元亀元年(1570)、家康公は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康公を岡崎城主としました。天正7年(1579)に信康公が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。天正18年(1590)に家康公が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となりますが、家康公が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせました。
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。石高こそ5万石前後と少なかったですが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられます。西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦のようなもので、城域も本丸程度であっただろうと考えられますが、家康公の頃までには近世の城郭としての原型ができあがりました。田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)に、城の東・北・西に総延長4.7kmに及ぶ総堀をつくりました。また、元和3年(1617)本多康紀のときは、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ複合天守閣が建てられました。
城郭の整備にともない東海道が城下に引き入れられ、慶長14年(1609)には伝馬町ができて、岡崎は東海道有数の宿場町として繁栄するに至りました。
明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不用とされた城郭の大部分は明治6年から7年にかけて取り壊されてしまいました。 このあとは、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりでありましたが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元されました。
いにしえ、東海道を往来する旅人が仰ぎ見たであろうその姿を、今我々も眺めることができます。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/
↑愛知県岡崎市公式サイト↑
犬山城
天文6年(1537)築城
天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築いたといわれています。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代を通じて重要な拠点となりました。
信長侵攻、池田恒興入城
天文16年(1547)、織田信秀が美濃(岐阜県)の斉藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」に出陣した信康が死去し、その子織田信清が城主となりますが、織田信長に反抗したため攻められ、織田信長の家臣で乳兄弟、池田恒興(いけだつねおき)が入城しました。
秀吉入城
天正10年(1582)「本能寺の変」で織田信長が倒れて後継者争いで世の中は乱れ、天正12年(1584)に秀吉対徳川家康・織田信長の次男信雄(のぶかつ)との間で「小牧・長久手の戦い」がはじまりました。当時の犬山城主は織田信雄の家臣、中川定成でしたが伊勢へいって不在であり、池田恒興が木曽川をわたり城内に侵入し、落城しました。後に秀吉が入城しました。以後、小牧山城に陣を構えた家康とにらみあいが続きましたが、両者の間で和が結ばれ、犬山城は織田信雄に返還されました。
慶長5年(1600)小笠原吉次入城
その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、文禄4年(1595)秀吉の家臣石川光吉が城主に、慶長5年(1600)、関が原の合戦後、家康側の小笠原吉次が入城。
元和3年(1617)成瀬氏、犬山城拝領
江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。
昭和27年(1952)国宝に指定される
昭和10年、国宝に指定されました。昭和27年規則改正にともない国宝に再指定されました。昭和40年(1965)解体修理完了。全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年(2004)、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっています。
https://inuyama-castle.jp
↑国宝犬山城公式サイト↑
愛知県の地名
桶狭間
現在の愛知県豊明市です。
国指定史跡「桶狭間古戦場伝説地」
戦国大名は戦乱の中にあって互いに全国統一を目指し、しのぎを削っていた。相模の北条、越後の上杉、甲斐の武田、駿河・遠江・三河の今川、尾張の織田等々が勢力を得て、常に領土の拡大、天下支配の野望に燃えていた。
今川義元は、約2万5000人の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府(静岡)を出発した。17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。
織田信長は、5月19日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに6騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000人余りとなり、合戦のときには軍勢3000人ほどになった。
今川軍は、難なく丸根・鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。
この戦いの死者は、今川軍2500人、織田軍830人 ほどで、要した時間は2時間という一瞬の出来事であった。
https://www.city.toyoake.lg.jp/2001.htm
↑豊明市公式サイト>桶狭間古戦場伝説地↑
三河国
現在の愛知県東半部。
三河地域は東と西に分けることができるようです。
https://www.pref.aichi.jp/soshiki/nishimikawa/gaiyo.html
↑愛知県公式サイト>西三河地域の概要↑
尾張
現在の愛知県西半部。
愛知県は三河国と尾張国に分かれていたことから、県の中でも方言が違ったりと
様々な違いがあるようです。
戦国時代の武将たちが多くの爪痕を残したように感じますね。
https://www.aichi-now.jp/omotenashi/warriors/
↑愛知県公式観光ガイド↑
いかがでしたでしょうか?
歴史に疎いおすずですが、戦国時代の武将の爪痕を多く感じることのできる土地に足を運んでいたと思うと不思議な気持ちになります。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」は愛知県が舞台になると思いますので、ぜひチェックして見てください。
それでは、次回の投稿でお会いしましょう!!
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ムームードメイン
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